Friedland を訪ねて

Göttingen(ゲッティンゲン)から南へ15km程行ったところに、Friedland(フリードランド)という町があります。
第二次世界大戦終戦直後の1945年9月20日、イギリスの指令により(当時ドイツは米英仏ソの四カ国に占領され、ゲッティンゲンやフリードランドの辺りはイギリス領だった)ここに戦争難民の為の避難所が設けられました。元はゲッティンゲン大学の農業試験場だった場所で、当初は豚舎を急ごしらえで使っていたようです。

Grenzdurchgangslager Friedland
Grenzdurchgangslager Friedland間もなく避難小屋(上写真左端。当時の建物が一つだけ残されています)も建てられるようになり、1945年末までで既に50万人以上がここへ避難して来ました。当時の主な避難民は、元々ドイツからソ連へ入植した人々。交通手段は限られていますから、歩いてやっとのことでここまで辿り着いた人も多くいるようです。

その後様々な状況を経て、現在は紛争地域などから逃れて来た人々の一時的な避難施設『Grenzdurchgangslager Friedland(フリードランドにある国境通過の一時避難所)』として機能しています。
ここへ来た避難民には公的機関ができるだけ早く住居を探し、順次そこへ移っていくことになります。一時避難、となっているのはその為で、ゲッティンゲンにも避難所から移って来た避難民が住んでいます。その後2年間は、基本的な生活費を国が面倒をみるシステムになっていますが、その間に生きていく手段を探り、後は自分の力で生きていかなければなりません。

Grenzdurchgangslager Friedland
ここで週に一度ボランティアをしているというドイツ人の知人に頼んで、施設開放日に私も一緒に連れて行ってもらいました。
彼女が「こんなに車が停まっているなんて信じられない!」と驚く程、この日は多くの人々が訪れていました。

まず見学したのは、彼女がいつも手伝いをしている衣類等の受け取り所。ここには寄付によって集められた衣服や靴、鞄、タオルなどが保管されています。フリードランドへ来た避難民は、ここで必要な物を選んで受け取ることができます。

Grenzdurchgangslager Friedland
「とっても整頓されてる。いつもと全然違うわ!」と思わず彼女も言っていましたが、普段は順番を待つ避難民でごったがえし、順番が来ると一目散に目当ての物を探し回るので、とても混乱した状態になるそうです。ここで受け取ることのできる品数は決められており、各人のスタンプ帳にスタンプを押すことで管理されています。
倉庫の奥には、まだ整理しきれずに袋に入ったままのものも多くありました。一般人の寄付の先にある、彼女が手伝っているような裏方仕事の役割の大きさを感じます。

この日は特別に、フリードランドへ来て13日目というシリア出身の男性と話すことができました。彼はアレッポ(シリア第二の都市)近くの出身で、職業は看護師。最初はレバノンへ逃れて難民キャンプで生活をし、その後ドイツへは国を離れて2年後に辿り着いたのだそうです。
Grenzdurchgangslager Friedland「アレッポの悲惨な状況を、日本の人々も悲しんでいますよ。」と通訳を介して言うと、彼は寂しげに微笑みました。
彼の隣には少年が寄り添っていました。12歳の長男ということでしたが、体は小さくて9歳位にしか見えません。
目が合うとニコッと微笑んだので、思わず「お名前は(Wie heißt du)?」と尋ねると「Ich heiße  〜(僕の名前は〜です).」ときちんと答えるではありませんか。まだたった13日しかドイツにいないのに、ドイツ語会話ができるとは! 子どもの生きる力には驚きますが、希望でもありますね。
この長男を含めて6人いるという子どもを抱えながらの道程は、様々な苦労があったことでしょう。しかし、ドイツという安定した国へ逃れられた歓びに満ちているように見受けられました。(左上写真:避難民が滞在する宿舎)Grenzdurchgangslager Friedland

敷地内には Evangelisch(エヴァンゲリッシュ=プロテスタント)の礼拝堂があります。中では快活で温和な様子の牧師が、数人の避難民とアラビア語で話していました。
彼もかつてはフリードランドにいた避難民でした。ドイツへ来たのは13年前。その後、できることは何でもやって生活の糧を得てきたと言います。
ここで牧師として働きだしたのは、8年前。「いつも持ち歩いているアドレス帳、こんなに分厚くなっちゃったよ!」と見せてくれました。きっとたくさんの人々が、彼と繋がることで生きる力を得ているのでしょう。

今回フリードランドをたった数時間垣間見ただけで、彼らの辛い経験がわかるだなんてとても言えません。でもこのような状況が身近にあることで、日本もいずれ他の地から逃れて来た人々を受け入れるべきときが来るであろうことはわかります。今の日本にとって重要なことは、そのときまでにシステムを構築しておくことではないでしょうか。
ドイツでも、避難民保護のシステムが全てうまくいっている訳ではないと思います。でもせっかくこのような先達がいるのですから、それをただ真似るのではなく参考にして、日本がしっかりとしたシステムの整った状態になることを望んでいます。

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